スタッフのご紹介

WMA認定のインストラクター

スタッフ一覧

  • David E Johnson


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       もう30年以上も前のことになりますが、僻地と呼ばれる場所や過酷な自然環境下で働き、活動し、そして生活をする特定の人々を対象とし、彼らが必要とする実用的な医療トレーニングを提供する為に我々Wilderness Medical Associates International (WMAI)が誕生することになりました。


       当時の一般的なファーストエイド(救急法)は彼らの求める特別な需要を満たすのに十分ではありませんでした。そこで、最新で最良の科学的研究に基づいた内容で、野外活動と医療教育の経験を持つ(特定の)人々の手よって教えることのできるカリキュラムを開発し発展させ、また定期的にアップデ―トすることが、我々のミッションとなったのです。そのミッションは今日も変わることはありません。


       北アメリカにおける団体の発足自体は決して華やかなものではありませんでしたが、その後に順調な成長を遂げ、今日では5大陸にそれぞれ支局を設ける国際組織へと発展を遂げることができました。このような世界への普及の原動力となったものは、おそらく我々WMAIの“思い“ではないでしょうか。信じることで成し遂げられた、そのことに各国の人々に共感して頂いたからだと信じています。これらの相互的努力により、現在ではパートナーシップを通じてWMAIカリキュラムは現地の人々の手により現地の言語で教えられています。日本支局である“一般社団法人 ウィルダネス メディカル アソシエツ ジャパン(WMAJ)”と同様に、ブラジル、中華人民共和国、アイスランド、台湾、タンザニアでも現地の人々によって(管理される)各支局が設立され、パートナーシップが結ばれています。また現在、イタリヤとタイにおいても支局の設立準備が行われています。各国で活躍中のWMAインストラクターの多くは、各支局の設立後に現地で開催されたWMAIコースの卒業生で構成され、インストラクターのローカライゼーション(各国における養成)も着実に進んでいますが、同時にWMAIは各国のインストラクターを可能な限り北米へ招き、北米式のトレーニングや研修を受講させることにも力を入れています。


       WMAJはWMAIにとっては2番目のパートナーシップ団体です。その発足から3年が経過しましたが、この3年の間には北米以外では初となる公式のインストラクター研修プログラムを開催し、その研修内容は北米インストラクター研修の全ての要素を含む、正式な研修プログラムの成功例となりました。またWMAJは国内の幅広い顧客層に訴えかけ、特に野外活動関係や医療関係の諸団体へ協調的に語りかけ続けています。その意味においてもWMAJは、WMAIカリキュラムの発展と普及のモデルケースとなっています。


       私はこれまでにプロフェッショナルとして、また個人として世界各国の人々との友情を育んできましたが、彼らからの国際的な協力により、WMAIカリキュラムの真価を世界に伝えたいと言う、私の個人的な夢が達成されました。パートナーとしてお互いに協力することでWMAIカリキュラムとトレーニングプログラムの価値を様々な人々へ訴え続けてきましたが、彼らの努力があったからこそ、現地の人々が真に必要とする内容へとカリキュラムを修正することが可能となったことも強調させて頂きたいと思います。

       これらの機会に恵まれたことを謙虚に受け止め、またこの場を借りて感謝の気持ちを伝えさせていただきます。

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  • 太田 拓野(Takuya Ota)


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       日本で高校を卒業後、アメリカ・ネバダ州立リノ大学に入学、運動学を学び、その後カナダ・ブリティッシュコロンビア州立トンプソンリバー大学でアドベンチャーツアリズムを学ぶ。

       就学中、夏シーズンにスイス・オーストリア・イタリア・フランスのアルプスでハイキングガイドを始め、合計6シーズン働く。また南米チリでアドベンチャー観光のコンサルタントとして政府の下で働く経験も得る。

       2006年、大学卒業後は北米最大のスキーリゾート、ブリティッシュコロンビア州のウィスラーに移住し、ガイドやスキーパトロールとして活動し始める。2011年に救急救命士学校に入りBC州Emergency Medical Responderの免許に合格し、同時にWilderness Medical Associates Internationalのインストラクターとして北米と日本で野外・災害救急法を教え始める。

       2013年にはBC州Primary Care Paramedicの免許に合格し、British Columbia Ambulance Serviceで救急救命士として活動を開始、現在はウィスラーの救急ステーションで働き、冬はスキーパトロールとしても活動。カナダ・アメリカ・スイス・日本でWMAの野外・災害救急法を日本語と英語両方で教えている。


       アメリカの大学に入学後、登山やロッククライミングにはまり北米や南米の山や岩を登りまわる。スノーボードにもはまるが怪我の多さとバックカントリーでの動きに不自由さを覚えて、スキーに移行。今もスキーは修行中。急斜面大好き。カヌーやシーカヤックにここ数年目覚め、BC州沿岸や湖を漕いでまわる。また自転車の旅も好きで、カナダから南米まで6ヶ月をかけて旅をしたり、カナディアンロッキーのジャスパーからバンフまで自転車で行くことも。テントで生活をしていたことが長くあり、特技はどこでも寝れること。あと、なんでも美味しく食べれる。というか何でも美味しいと感じてしまう味音痴。自分で作るオーブン料理はマジで最高。最近はもっぱらいろいろなトレーニングを受講することが楽しみで、いろいろな分野の講座やワークショップに顔を出している。


       今年の2月に子犬を飼い始め、可愛さにメロメロ中です。

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  • 横堀 勇(Isamu Yokobori)


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       小さい頃から非常に落ち着きがなかった私は、いつも怪我ばかり。交通事故で車の下敷きになったことや、木から落ちて肩を脱臼したことも。ある時には頭を何針も縫う大怪我も。幸運にも小学生まで死なずに済んだ私はモトクロスバイクに乗り始め、中学時代にはMTBで山岳ツーリイングに出かけるようになりました。山を荒らしまくったバチがあったのか奥多摩の登山道からMTBと共に崖へ転落。たまたま木に引っかかり一命を取り留めました。救助を待つあいだの記憶はほぼゼロ。しかし寒さと不安感、そしてロープで降りてくる救助隊を見た時の安堵感は今でも忘れられません。


       これまでに自分の命を守ってくれた人々への感謝の気持ちからか、その後は人の命を守る職業への憧れが芽生え、高校時代からはライフガードとして活動(その後10年間続けるようになります)。また大学時代は自然への憧れもあり、バイクでの日本縦断や登山など、行動範囲は広くなりました(流石に落ち着きも出て、怪我はなくなります)。そんな中、自然への理解をより深める為、カナダ東部へ単身留学します。カールトン大学にて環境学を専攻。そして、人の命だけでなく自然を守ることも自分の使命だと感じるように・・・。


       大学卒業後はロッキー山脈へ移動。より高度な山岳技術を得る為、Yamnuska Mountain Skills Semesterを受講。しかしこの時、肺結核に犯されていることが判明し、抗生剤による治療を受けつつも山岳トレーニングを続行。(その後6ヶ月間、汗もオシッコもオレンジ色の日々でした)。耐えた甲斐あってか、四季を通じた様々な状況下での山岳技術を身に付けることができました。トレーニングの中で最も衝撃を受けたものはWilderness Medical Associates Internationalが教えるWilderness First Responder(野外・災害救急法80時間コース)でした。ライフガード時代にファーストエイドは叩き込まれてきたはずなのに、自分がいかに無知であったかを思い知らされました。


       帰国後は静岡の自然学校に就職。富士登山や樹海洞窟のガイド業、また国際的な環境教育事業にも携わりました。当時はまだ北米のように体系化された野外専門の救急法は日本に存在しない時代だったので、この頃から日本での野外に特化した救急法の必要性を訴えるようになります。


       時は過ぎ、更なる大自然を欲し再度カナダへ渡ります。カナディアンロッキーのガイドになるべく、Association of Canadian Mountain Guides資格を取得。またカナディアンロッキーにてYamnuska Mountain Toursのガイドとして5シーズン、ガイド技術を磨くことになります。ロッキーの大自然を前に、野外・災害救急法の普及の必要性を強く感じ、この頃から日本で開催され始めたばかりのWMAコースに通訳として関わり始めます。


       その後、東日本大震災を目の当たりにし、都市型ファーストエイドの限界を思い知らされます。多くの人々が野外・災害救急法をマスターすることが出来れば、これから起こり得る未曾有の災害にも対応できる、そう信じ自らがインストラクターになる道を決意。再度カナダに渡り認定を受け、WMAインストラクターとして登録。同じく認定を受けたスイスアルプス山岳ガイドの太田拓野(現在はWMAJ共同代表)と共に、その後、WMA日本支局であるWMAJを設立することになります。


       WMAインストラクターである為には、ガイドレベルのアウトドアスキル、教育者としての経験、また医療経験が必要になります。カナダのガイド資格に続き、公益社団法人日本山岳ガイド協会のガイド資格も所得。また不足していた医療資格と経験を補うため、今度はアメリカに渡りコロラド州で救急救命士のスクールに通い、EMT(救急救命士)資格とWEMT(野外救急救命士)資格を取得。(現在でも医療資格の更新の為、3年に一度の間隔でアメリカに渡りレーニングを受け続けています。)現在はカナディアンロッキーからは遠ざかってしまいましたが、今は外国人を対象に日本国内の山々のガイドをしています。

       以上が私のヒストリーですが、どの様な人物像をイメージしてい頂いているのか気になるところです。見た目は髭メガネのアラフォーおやじ。外見と声が一致していないと、よく言われます。

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  • 寺田 達也(Tatsuya Terada)


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       「頭で考えるより先に体が動く…」「落ち着きがない…」こんな言葉そのままに東京・日野の地ですくすくと育ってきました。小さいころから外へ出かける機会は多かったのですが、この性分が災いしてケガばかり。ある時は頭を打ち、ある時はフジツボで足をザックリ、またあるときは飛び込んだ川で溺れ…。今思い返すとほんとうに「しょうもない」子どもでした。


       月日は経ち、大学生になって野外教育の団体「(公財)ひの社会教育センター」で子どもの自然体験ボランティアとして活動をしていた2008年に、たまたまチラシで手にした「Wilderness First Responder講習会(9日間)」に参加したのがWMAとの出会いでした。(当時は通訳がいるものの、外人のインストラクターによる英語の講習で、救急の勉強か英語の勉強かもわからないほどで…)後で知ったのはWMAが日本に入ってきて2年目の事でした。その時の感想は「なんかスゴイ知識技術を学んだ!」そんな程度だったように記憶しています。


       それから2年後の2010年、大きな雪崩事故に遭遇し救助に駆けつけることがありました。その時の現場状況と後の反省からWMA救急法の偉大さを痛感、それからも時を同じくして山での事故や傷病者に遭遇する機会がぐっと増え、日に日にWMAの価値を再認識すると共に、より多くの国内の人に伝えねば!という使命感が勝手に湧き出してきました。


       2012年に講習主催者として「Wilderness First Aid-TOKYO」という任意団体を設立し、WMA講習会を3年ほど首都圏にて招致開催。2015年からはWMAJの広報窓口に就任し、2008年に感じた衝撃を多くの人に共有すべく、ワークショップや講習会の場で広報活動やインストラクションに勤しんでいます。併せて自分のスキルを高めるために救助救急に関わる様々な講習会に参加し、トレーニングの機会を課しています。


        スキーパトロールではこれまで多数の傷病者救護の実践経験を積んできました。また、WMAJインストラクタートレーニングとして、年に一度医師と一緒にWALSコースへ参加し、救急救命士レベルのトレーニングを受けています。


       個人的には「やってみたい!」と思ったことは何でもやらないと気が済まない男で、アウトドアメーカーに勤務して店舗販売をしてみたり、ラフティングガイドの仕事に触れてみたり、トレッキングガイドなんかもさせてもらう機会がありました。


       2010年からは(公財)社会教育協会で自然学校の部署にも在籍し、子どもたちを連れて山川雪へと「外で遊ぶこと」を主の仕事にしつつ、冬はスキー場でパトロールをしたり、都市型の救急法のインストラクターもしていたりと、「何の仕事をしてるの?」と聞かれると答え方に困るような日々を送っています。


       夏はシャワークライミングやカヤックなどの水あそび、冬はバックカントリースキーやら雪遊び、年間通して山を楽しみ、自然とのかかわりを満喫しています。


       どうも昔から海へのかかわりが少ないことに最近気づき、圏央道も繋がり「海が近くなった」ことから、今度はマリンスポーツにでも手を出すか…。とまたどうしようもないアイディアが広がっている今日この頃です。。


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  • 吉沢 充世(Atsuyo Yoshizawa)


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       横浜生まれの横浜育ち。性格はいたって温厚。趣味は音楽とたき火と星。声といびきの大きさは誰にも負けません。尊敬する人は平賀源内と父と祖父。あこがれる人(?)はスナフキン。


       5歳からクラシックピアノを習いはじめ、音楽が身近にありました。ピアノはやめてしまいましたが、ギターやオカリナなどの楽器演奏と歌の作詞作曲が趣味で、音楽と自分は切ってもきれない関係です。(カラオケも大好きです) 幼い頃から天文に興味を抱き、中学高校の6年間、天文部に在籍しました。毎月開催される部活の観察会。約20kgの荷物を背負い、夜になってから山に登り、テントを張り、自炊する。そして徹夜で天体観察をし、天体写真を撮る。これがのちに野外活動の世界で仕事をしていくうえでのバックボーンとなりました。


       天文への興味は、やがて天文学者になりたいという夢に変わり、中学高校時代に相対性理論や量子力学の勉強を始め、大学は天文研究室がある大学を選択しました。しかし現実は厳しく、自分が求める天文学の研究が思うようにできないことを知り、天文は趣味にとどめようと決意しました。私の進学した大学は、教員養成系大学でしたので、研究者の道をあきらめた私は、必然的に教員としての道を進むことになりました。地域子供会を運営するサークルに所属し、社会教育の勉強をするようになるのですが、子供会でおこなっていたキャンプについてもっと知りたいと思うようになり、野外活動指導者の勉強にのめりこんでいきました。


       大学卒業後、6年間小学校教諭として公立小学校に勤務し、各学年の担任として充実した教師生活を送りました。忙しい中でも野外活動指導をやめたわけではなく、“二足のわらじ”を履いていたのですが、教員という仕事は、他の仕事と両立できるほど、甘いものではありませんでした。日々の授業はもちろんのこと、クラブ活動指導、いじめや不登校児童への対応、教科教育の研究、校務分掌、校内行事・・・。未来を担うこどもたちに必要なこれらの仕事のひとつひとつが、おろそかになることはプロとして決して許されることではありません。どちらかを選択するしかない、と決意を固めた私は、野外活動を選択し、小学校教員を退職しました。このとき退職を決断しなければ、私は今でも小学校教員を続けていたと思います。


       小学校教員を退職してからは、野外活動指導にまい進する日々でした。収入は1/4以下になりましたが、自分の好きな仕事に没頭できる環境は、幸せでした。幼稚園キャンプ、小学校の自然教室、教育委員会主催のこどもキャンプ、専門学校や大学のキャンプ実習など、野外活動の中でも「教育キャンプ」と言われるジャンルの指導に多くあたり、これは現在も継続しています。


       一方、先輩が設立した野外活動を企画運営する会社に所属し、一般向けのアウトドアイベントも企画しました。トレッキング、キャンピング、マウンテンバイク、カヌー・カヤック、アウトドアクッキング、ネイチャークラフト、スターウォッチング、スノーシューハイキング、スキーハイキングなど、幅広いアクティビティをおこなってきました。2013年からはスキースクールに在籍し、スキーインストラクターとスノーシューガイドとして活動しています。


       「自然とひととの出会い」をテーマにし、ストイックに自然と向き合う、というよりは、ひととしてより豊かに生きるために自然と向き合ってみましょう、というコンセプトで今も活動を続けています。


       野外活動に携わっている以上、救急法は必須な項目です。自分なりに勉強をしていましたが、2011年に知人の紹介でWMAに出会いました。日本語教材を使って日本語の講習を行った初めてのコースだったそうです。インストラクターの太田・横堀から熱いパッションがビンビン伝わってくる衝撃的な講習会だったのを今でも覚えています。その後WAFA、WFRを受講し、いつしか「このカリキュラムを多くの人に広めたい」という欲求が胸の中に広がるようになりました。自然の中で思う存分活動するために、WMAのカリキュラムを理解することは、大きな後押しになると直感しました。


       「自然とひととの出会い」が私のテーマであることに変わりはありません。そして、私のバックボーンが「教育」であること。これも変わらないものです。これまで、教員として、そして野外活動指導者として、のべおよそ1万人の方たちに出会ってきました。そのひとつひとつの出会いが、今日の私を作り上げ導いてきてくれたものだと確信しています。


       WMAのインストラクターとして、出会いを大切にし、教育的な観点を常に持ち続けるインストラクターであり続けたいと考えています。


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  • 大手 まゆみ (Mayumi Ote)


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       奈良県曽爾村生まれ。1歳8か月で自らの足で山に登り、放課後の遊び場は山か川かという環境のもと全力で遊んで育つ。


       母の勧めで子どもキャンプに参加し始め、小3当時に出会ったキャンプカウンセラーに憧れ、大学入学と同時に自らもキャンプ指導者となる。


       野外活動にのめりこんだ私は大学で心理学を学ぶ傍ら年間200日近くを野外活動施設で過ごし、幼児からシニアを対象としたキャンプ等で引率や運営を担当、野山に海川を駆け回る。


       大学卒業後も、大阪・兵庫・奈良・京都の野外活動団体のキャンプを手伝ったり、企画運営にも挑戦してみたり。


       そんな中、子どもキャンプや卒後勤務していた児童養護施設での傷病発生時における自らの無力さと知識不足とに歯痒さを感じて勉強するうち、2008年に野外救急法のワークショップを受けてこれまで受講してきた救急法との違いに衝撃を受ける。


       地元は自然災害が日常茶飯事、救急車を呼んでも到着まで30分以上かかり、救急病院までたどり着くにも1~2時間以上を要する医療過疎地のため、「何かあってもまず自分達で何とかしなければ」という考え方を身につけざるを得ない環境だった。


       そのため医療に対する憧れが幼少よりあり、一度は医療職を諦めるも転落事故による右手切断の危機を乗り越えたことをきっかけに、これまでの歯痒い経験から医療知識を身に着けたいという思いが強くなったことから看護師免許取得を決意する。


       看護学校入学後、北アルプスの山の中に診療所があることを知り、「うちの地元のような場所がある!」という謎の衝撃を受ける。生化学担当講師の紹介で夏山診療所での山岳医療ボランティアを始め(診療所には現在も毎夏通っている)、同時に登山者をより知りたいという目的もあってシーズンを問わない本格的な登山も開始する。


       看護学校3年時、ヘリで救急搬送され一命を取り留めた高地肺水腫の患者さんとの出会いや診療所で医師からお話を聞くうちに「自分の五感をフルに使って患者さんをみる。ここには医療の原点がある」と強い感銘を受けたことで救命救急センターを希望、卒後配属される。


       同時に夏山診療所での経験から野外災害救急法の重要性を改めて実感する。


       とある山小屋で、野外救急法で学んだ知識と評価方法により搬送方法を変更し、大事に至らなかった患者さんの記事を読み衝撃を受ける。


       ひとつの点でどれだけ素晴らしいことが行われていても、そこで行われた判断や評価が病院まで繋がらなければ活かされない。点と点を線で繋いでいくことが必要だ」と考え、野外救急法を普及させることを通じて点と点を繋ぐ線を描きたいと2018年秋WMAJインストラクター候補生の門を叩いて今に至る。


       現在は念願だったキャンプナースの活動も開始。「大人が努力することで防ぎえる傷病だけは絶対に起こさせたくない、その環境を整えることで子どもたちに最大限の挑戦と失敗をさせたい」というキャンパーズファースト観を携えて野外活動支援も行っている。


       これまで人生の転機に必ず人との出会いがあり、その方々との出会いを積み重ねた上に現在の自分があると常に感じているので、コースを受講されるみなさんとの出会いが毎回楽しみな今日この頃です。


    • 新野 和也 (Kazuya Niino)


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         大阪府出身・高校卒業後陸上自衛隊に2年間勤務。その時に取得したどこでも寝られる特技は現在も生かされています。


         その後電気工事会社で3年務めた後、縁あって現在も働いている「どんころ野外学校」へ研修生として7月から入学します。


         入学したその日の午後「午後からカヌーに行こう。」と誘われ生まれて初めてカヌーでの川下りを体験しました。今思えばこれば全ての始まりでした。それからは天気が良ければ気持ち良いからカヌー、雨が降れば増水して楽しいからカヌー。もうカヌー三昧の日々でした。


         勿論カヌー以外に登山や青少年キャンプのスタッフもさせて頂きましたが、やはりカヌーが最高に楽しかったですね。しかしどんな活動でも「慣れた頃が一番油断する」この言葉通り、増水した川で転覆し流木と一緒に延々流される、初めて下る川なのに下見をせずに下った結果8mの滝を落ちてしまう(降りたのではなく落ちてしまう)。春先気温や水温が低いのに十分な装備を付けずに一緒に川下りをしていた仲間が低体温症になる等‥。様々な危ない橋を辛うじて渡る様な事をしていました。そしてようやく「このままだと自分や仲間が死んでしまう。」と気付きした。それからカヌー操船技術、装備、救助についてを色々な講習会に参加し「より楽しむ為には安全第一である事、その為には技術や理論を知らなければならない、緊急事態が有った時は迅速な救助が必要である。」事を学びます。


         しかし救助しても救急車が来るまで時間が掛かってしまう野外環境下では自分達が応急的に処置をしなければなりません。そこで都市型救急法のインストラクターになり、多くの人に救急法を伝えながら自分も勉強しましたが現場に即した方法は分かりませんでした。WMAの講習会を始めて受講したのはそんな時期でした。それまでの救急法とは全く違う理論や手法に只々驚き、4日間で頭がパンクしそうになった事を覚えています。


         そして現在カヌー・ラフティング、スノーシューガイドの活動の他に、野外でのリスクマネジメント・急流救助のインストラクターとして多くの人達と共に学び、トレーニングを行っています。


         私の目標は一人でも多くの人が野外で活動する事の楽しさと大切さを知り、緊急事態が起こった時にはお互いに協力して助け合う事が出来る社会を作る事です。これからも人との出会いを大切にして多くの事を共有していきたいと思っています。


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    • 稲垣 泰斗(Taito Inagaki)


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         山のない濃尾平野で生まれ、ムシ博士、川ガキとして幼少期を過ごす。ク◯ペリンテストの「好きなことしかやらない」的評価のまま、のびのびと育つ。


         高校時代、ワルイ仲間に誘われて、テントを担いで山に繰り出すようになる。登山計画書を警察に提出し、月に一度は家に帰らない不良生活。


         山が好き、と言うより仲間と出かける特別感が一番であったが、里山から鈴鹿、奥美濃、北アルプスと行動範囲を広げるに付け、その雄大さにビビる。いつしか一人でも山に行き始める。


         医学生時代、誤って体育会系の組織に入り、体力・精神の限界は色々な意味で自分が思っているより先にあることを知る。


         研修医時代、内科医を志していたが、目の前で人が倒れたり、轢かれたりした影響があってか無くてか、ある日思い立って救急医になる。


         ブラックな社会人になり、グッと休みが減ったところでトレイルランニングと出会う。2泊3日必要だった山旅に日帰りで行けてしまうことに気づき、一気にハマる。レースにも数多く出場し、気づけば国内外の100マイルレースを完走。そんな折、トレイルレース中に重症熱中症になって運ばれてきた患者を診たことをキッカケに、レースの救護体制作りに深く関わるようになる。その学びの中の一つとしてWilderness Medicineと出会い、WMAコースを受講する。


         WMAJメンバーのWilderness Medicineに対する情熱、デイビッド・ジョンソンのフラットでありながら真実を追求する姿勢、そして、非医療従事者であるアウトドアガイド達が真剣に学び、救急医療従事者レベルの専門的な野外救急法を修得していく姿を目の当たりにし、日本の野外救急分野の発展に貢献したくなる。


         WMAJやその他の団体と協力し、野外でのリスクマネージメントに関する研究会、Wilderness Risk Management Conferenceを立ち上げる。その後、WMAJ医療アドバイザーに推薦され、悩んだフリをしたが、ここだけの話、心は即決している。


         あれよと言う間に所属していた救命救急センターを退職するも、「あなたのやっていることは一貫してお医者さん」という妻の言葉を支えに、野外×救急っぽい種々の企みを実行すべく、落ち着きない日々を過ごしている。


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    • 茶谷 奨(Sho Chatani)


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         大阪市内で生まれ育った私はあまり野外活動とは縁無く医大生になりましたが、大学6年生時にスクーバダイビングを始めたのが大自然との付き合い始めでした。大学卒業後は大阪市内の総合病院での初期研修を経て精神医療の分野に進み、精神科救急を専門にしながら石垣島を中心とした海には足を運び続けていました。30歳を過ぎてから、かねてバイクツーリングの際に横目で見ていた大峰山脈に登ってみたいと思ったのがきっかけで登山を開始すると、あっという間にのめり込んでそのまま毎週のように方々の山に通うように。積雪期の穂高なども単独で通い、今思えばずいぶん危なっかしい登山者だったのではないかと思いますが、その後山岳会に所属してクライミングを開始すると、特にアイスクライミングに心を惹かれて最近では冬場は毎週のように日本中の氷瀑に通うようになっています。


         WMAとの出会いは、山行中に偶然出会った怪我人の手当を仕事柄手伝ったりしている中で、自分の知識や技術を活かすのが難しいことを実感し、2012年に御殿場で開催されたWilderness Advanced Life Supportコースを受講したのが初めでした。コースは5日間の充実した内容で参加者が非常に多かったこともあり、皆で知恵を絞りながら最後のシミュレーションまでこなせたのが良い思い出です。同期受講者とは今でもFacebookなどで連絡を取りながら一緒に山に登ったりもしています。


         残念ながら自分の周囲では山中での事故が少なからず起きており、WMAでの学びを実践することになったことが何度かあります。また本職でも災害派遣精神医療チーム(DPAT)の隊員を拝命し、限られた情報下でチームをコントロールする際にシミュレーションでの経験が活きています。


         今回WMAの医療アドバイザーをしてもらえないかというお話を頂いた時、山岳医療を専門としているわけではない自分が適任なのか悩みましたが、野外活動者と医療者の橋渡しとなり、多くの人にWMAのスピリッツを伝えるお手伝いが出来るならと考えて、微力ながら引き受けさせて頂くことにしました。野外活動者目線でのお話も出来ますし、野外医療を専門とされている先生方にはさらにご指導を頂いて、より充実したコースを多くの人にお届けできればと思っています


         受講者の皆様にはコースなどでお会いできればお気軽にお声かけ下さい。アイスクライミングのパートナーも常時募集中です!


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    • 中村 富士美(Fujimi Nakamura)


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         私が初めて「山」と出会ったのは、幼少期祖母に連れて行かれた山菜採りでした。


         祖母が山菜採りをしている間、山で遊んでいた私は、急斜面を滑落してしまいました。幸い大きな怪我もなく事なきを得たのですが、それ以降は「山は怖い」という記憶のまま時が経ち、「山」とは無縁の日々を送っていました。


         そんな私が数年前、あることをきっかけに「北岳」へ登ることになりました。


         普段トレーニングもしていなかったため、とても辛い登山でした。歩き慣れない雪渓では滑り落ち、稜線では夕立にあい、もう二度と山には登らない!と思った時、雄大な富士山に大きな虹がかかり、言葉にならないほど綺麗な稜線が姿を現してくれました。その景色は今でも忘れられない光景です。


         それから本格的に登山を始め、今では夏は縦走や沢登り、冬にはスキー、バリエーションルート、アイスクライミング等、四季を問わず登山を楽しんでいます。


         元々、野外救急に興味があった私は、友人に誘われ、WMAJ主催のアドバンスコースを受講したことをきっかけに、山岳医療に興味を持つようになり、2017年日本登山医学会認定(UIAA/ICAR/ISMM)国際山岳看護師となりました。


         看護師としては、都内の市立病院で救命救急センター、集中治療室、心臓カテーテル検査室勤務を経て、現在は非常勤職員となり病院勤務を続けながら、安全登山の啓蒙活動や、山岳地帯における行方不明遭難捜索、救助活動を山岳看護師の立場でサポートをしています。


         今までの臨床経験と遭難捜索、救助活動で得た学びを還元していきたいと思っています。


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